HISTORY
The Coors Story
1873-1915
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ザ・クアーズ・ストーリー 1916〜1933

ささやかな出発

アドルフ・クアーズ19世紀アメリカの西部は荒々しくも可能性に満ちた土地でした。情熱が生きていた場所、夢が現実になり、懸命に働けば報われた場所だったのです。熱い希望を抱いた人々は、この西部こそ、一旗揚げられる働きがいのある土地だと思いました。
そしてそのような人達の中に、ドイツから来た若き移民、後にクアーズ・ブリューイング・カンパニーの創立者となるアドルフ・クアーズもいたのです。

アドルフは、1847年、プロシアのバルメン、今日ではヴッパータールと呼ばれているドイツの町に生まれました。アドルフの生後間もなく、一家は、製粉業の親方だった父親の仕事が豊富にある近くの町、ドルトムントに移転しました。13才になると、アドルフは印刷業者や製本工など、町の職人について仕事を学ぶようになり、14才のとき、やがて生涯の仕事となる職業に出会いました。ドルトムントのヘンリー・ヴェンカー(Henry Wenker)醸造所に見習として勤め始めたのでした。

しかし、それからの数年間は、アドルフとその弟、そして妹にとってまさに悲劇と言うべき時期でした。まず母親が亡くなり、ついで父親も後を追うようにして亡くなったため、アドルフは、醸造所の仕事を、技術を覚えるための訓練などと言っていられなくなりました。それは、生き抜いていくための手段となったのです。しかし、幸いなことに醸造所の見習として、彼は衣食住を支給されていました。もう1つ幸いなことに、醸造所のオーナーの36才になる息子がアドルフに目をかけてくれるようになりました。また、夜には簿記係として働き、なにがしかの賃金を得ていたようです。この仕事を通じて、アドルフは醸造業の知識を一層豊かにし、ビール造りへの情熱がさらにかきたてられたと同時に、経理にも通じることができたのでした。

21才まで醸造業の仕事を続けたアドルフは、戦争と社会不安のために、当時数10万人のドイツ人がそうしたように、可能性を求めてアメリカに渡りました。1868年、密航者として合衆国―おそらくバルチモア―に着いたとき、アドルフは一文無しで、仕事もありませんでした。彼が持っていたもの、それは夢です。自分の醸造所を開くという夢です。

当時ジャーナリストのホーラス・グリーリーが繰り返していた言葉「西部へ行け、若者よ、西部へ行きたまえ」に心を動かされたアドルフは、アメリカを横断する旅に出ました。この若い移民は、煉瓦の積み職人、石工、その他の肉体労働をしてパンを得ながら西を目指し続け、1869年末、イリノイのナッパーヴィルにあるステンガー醸造所に監督として雇われました。醸造所のオーナーには3人の娘がいました。アドルフは、やがてオーナーから、将来この新しい監督を娘婿として迎えようと思われるまでになりましたが、どうやらアドルフは、そのように腰を落ち着ける気にはならなかったらしく、2年半ほどで醸造所に勤めた後、さらに西へ向かう旅を続けました。

鉄道の仕事をしながら、苦労して西を目指したアドルフは、1872年、コロラドのデンバーに着きました。ここでついに、自分の夢を実現するため、仕事に打ち込むことが可能になったのです。1ヶ月もしないうちにデンバー飲料会社の権利を買い、その年のうちに会社のすべての権利を1人で手に収めました。たいていの人はこれで満足してしまうところですが、アドルフは違いました。彼の身体にはビール造りの血が流れていたのです。

唯一の休日である日曜日になると、アドルフは、デンバーの西の丘陵地帯にあるゴールデンの町へ行き、その郊外を歩いては景色を楽しみながら、自分の醸造所を思い描いたものでした。一攫千金を狙う人々が金を求めてコロラド・ロッキーの隅々まで歩き回っていた時代ですが、アドルフが求めていたものは別の宝物でした。それは、完璧なビールを造るための鍵となる材料、すなわち水です。

アドルフは、その宝物をゴールデンのすぐ東にある資源の豊かなクリア・クリーク渓谷で見つけました。柳の林の中にある泉から、冷たい水がこんこんと涌き出ていたのです。川岸に古いなめし革工場の跡地があり、そこは、アドルフの新しい事業を始めるために申し分のない場所でした。



夢の実現

1873年、つまりコロラドが38番目の州になる3年前のこと、アドルフは、ジェイコブ・シューラーと共に「ザ・ゴールデン・ブリュワリー」を開きました。シューラーはアドルフの飲料会社時代の顧客で、18,000ドルをこの事業に投資し、一方、当時まだ26才のアドルフは2,000ドルの貯金と、専門技術、そして情熱を提供したのでした。

アドルフは、良いビールの作り方を知っていることだけでなく、そのビールを売って商売をする能力があることも証明しました。彼は、列車やラバに引かせた荷車を使って、丘陵地帯の喉の渇いた鉱夫達にビールを届け、またその他の西部テリトリーにいる早くからの入植者達には、貨車でビールを運びました。1年も待たずに利益が出るようになり、1880年までには、会社が大成功を収めたおかげで、アドルフはパートナーの権利を買い取り、醸造所の単独の所有者になることができました。


1880年の醸造所の年間生産量は3、500バレル(1バレルは31ガロン)でしたが、10年後の1890年には17,600バレルに達し、会社は今やしっかりと地歩を固めました。その後10年間は、全国的な不況、壊滅的被害をもたらした洪水、高まる禁酒法の不安にも負けず、会社は繁栄を続けることになったのです。



    

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